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 握りしめたオレンジ色の花は、既にすっかり草臥れてしまっていた。
(寒い……)
 冷たい大粒の雨がカタリーナの身体を叩く。すっかり日が落ちて辺りは闇に包まれ、村への帰り道も見失ってしまった。木々が風に荒々しく揺さぶられる音が、カタリーナの不安をあおる。


 ――もしかしたら、このまま死んでしまうんじゃ?


 そんな考えが頭を過ぎったその瞬間、全身の力が抜けてしまい、カタリーナは思わずぬかるんだ地面に膝をついた。一日中森を歩いた両膝はすでに限界だった。疲労がどろりと瞼の上にのしかかってくる。ザァザァという雨の音が次第に遠くなり、耳に心地の良い音にすら聞こえてきて、カタリーナは全身を地面に預けた。
 ふと手元に目をやると、優しく抱えていたはずの花が、寒さで強張って握りしめた手の中でぼろぼろになっているのが見えた。
(ああ……)
 薄れゆく意識のなかにぼんやりと、この花を受け取るはずだった人の笑顔が浮かぶ。
(まにあわなくて、ごめんね……)


 その時だった。
 夜の闇が一瞬だけ白く閃いた。直後にドドーンという凄まじい音が轟く。どうやら雷が近くに落ちたらしい。
 しかしカタリーナが見たのは白い閃光だけではなかった。--大きな屋敷だ。夜の闇と折り重なる木々に隠されていたが、稲光が閃いたその瞬間、そう遠くない場所に城のような大きな屋敷の影が見えた。人の気配までは分からなかったが、いようがいまいがどちらにせよもしかしたらこの雨風を凌げるかもしれない。そんな希望がカタリーナを奮い立たせた。手足に力を込めて、やっと立ち上がる。
(神様、お導きに感謝します――!)
 期待にはやる気持ちを抑えながら、雷が落ちる毎に浮かび上がるシルエットを頼りに、カタリーナは歩き続けた。


 †††

 


 近づくにつれその屋敷が本当に絵本の中の城のように大きく立派なものであることが分かった。玄関の扉はカタリーナの倍以上の高さがある。装飾も豪華だ。外側から見ても窓の中は暗いが、屋敷の周辺はきちんと手入れされているところを見ると、人が住んでいないとは断定しにくい。念のため、カタリーナは重厚な大扉のノッカーを叩いた。
「すみません、すみません!どなたかいらっしゃいませんか……!」
 大きな声で叫んだものの、この風雨の中聞こえただろうか……と、そんなことを逡巡していると、やがて大きな扉がぎぃ、と音を立てて開いた。
「おや、こんな夜分に客人とは珍しい」
 召使が二人がかりで開けた大扉の向こうには、薔薇とトランプの装飾があしらわれた、黒いシルクハットの男が立っていた。その黒と黄色の上質なベスト型の燕尾服を見れば、彼が召使の類ではないことは一目瞭然だった。
「遅くにすみません。実はこの嵐の中、森で迷ってしまって……」
 男は特に表情もなくカタリーナをじっと見つめている。
「不躾なのは承知の上です。どうか一晩、嵐が過ぎるのを待たせて頂けないでしょうか」
 カタリーナは深々と頭を下げた。男の表情は窺い知れない。いや、見たくなかったのかもしれない。もし不快感に顔を歪めていたら、このまま追い払われてしまうと思ったから。
(神様、どうかお願いします……!)
 カタリーナは目をぎゅっと瞑って二度目の奇跡を祈った。


「とんだ災難だったねぇ。ずいぶん冷えただろう。どうぞ上がりたまえ」
 男はにこりとほほ笑んで、中に入るように促した。
「ありがとうございます!」
 カタリーナは安堵のあまり、また再び深く頭を下げた。
「気にすることはないよ、顔を上げなさい」
 男は再びカタリーナに微笑んで見せた。目元と口元に刻まれた皺が老いを漂わせるも、背筋はしゃんと伸び佇まいはどこか若々しい。まさしく老紳士といった様子だ。低く落ち着いた声が心地良い。
「お腹が空いただろう。ちょうど友人たちと食事中だったんだ。君の分もすぐに用意させよう。シャワーと着替えが終わったら、一階の食堂へ来たまえ」
「えっ、そんなご飯にお風呂まで……!?そこまでしていただくのは申し訳ないです」
「なに、気にすることはないさ。ちょうど退屈していたところでね。我々の話相手でもしておくれ。友人たちもきっと歓迎してくれるだろう」
 そう言って男が手を叩くと、どこからともなく召使が現れた。男が召使に指示をすると、召使は「こちらでございます」と来客用寝室へと歩き始める。
(神様!本当に、ほんっとうに、ありがとうございますっ!)
 思いもよらぬ幸運。神への感謝に夢中なカタリーナは、召使の光のない瞳、生気が感じられない傀儡人形のような有様に違和感を覚えることすらなかった。

 シャワールームで温かい湯を浴びて泥を洗い流すと、まさに死者から生者に生き返った心地がした。すっかり冷えきっていたらしい、ぎこちなく動く指先も、時間をかけてゆっくり揉み解した。

 


「どうぞこちらをお召ください」
 そう言って召使に差し出されたのは純白のワンピース。村育ちで外の世界に詳しくないカタリーナでも、それが高級な生地で仕立てられたものであるということは手触りで分かった。
(こんな高そうなもの、いいのかなぁ……)
 とは言いつつも、泥だらけになった自分のワンピースを再び着るわけにもいかず。
 傍にある大きな鏡の前に立ち、純白のワンピースを自分の身体にあてがう。鏡に映るその姿がとても非現実的で、カタリーナはどきどきした。村で畑を耕しているだけでは、一生着ることのなかった服だろう。まるで"灰かぶり"にでもなった気分だった。するりとした肌触りを感じながら袖を通す。
 改めて鏡の前に立つ。裾をつまんでくるりと回る。それだけでなんだか自分が特別になった気分だ。
(あなたも明日きっと、そんな気持ちになるのかな?)
 物思いに耽っていると、背後から突然「もうよろしいでしょうか」と声をかけられ飛び上がった。先ほどの召使だった。
「お食事の用意ができました。こちらへ」
 ずっと見られていたという恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら、カタリーナは召使に連れられ一階の食堂へ向かった。



 玄関の大扉があるエントランスは吹き抜けになっており、そこから一階と二階の行き来ができる。上質な木製の階段を下り大扉を横切ると、やや大きな両開きの扉がある。それが食堂の扉だった。召使が片側を開き、中へ入るよう促した。
 まず目の前に飛び込んできたのは大きな長いテーブル。手前から奥へ、かなり大勢の人間が並んで座れるようになっている。その大きなテーブルの奥で、先ほどのシルクハットの男と他に二人、たった三人だけが食卓を囲んでいる。真白いクロスはとても清潔感に溢れ、華やかな燭台や銀食器たちを引き立たせていた。壁には絵や剣や盾など、様々ば装飾品がかけられている。
(すごい、本当に絵本の中のお城みたい……!)
 カタリーナはいつしか部屋の様子をうっとりと眺めていた。


「おや、似合っているじゃないか」
 はっ、と声の方向へ視線を向けると、シルクハットの男がこちらを見ていた。と言っても食事の席だからか、帽子は脱いでいる。そこで初めて、グレーと白のアシンメトリーな髪色に気が付く。更によく見ると、瞳の色も左右で違うことに気が付いた。片方が赤色で、片方が青色。不思議な人だなぁ、とぼんやり思った。
「こんなにいい服を貸していただいて、ありがとうございました」
「いやむしろすまないね。それしか用意できるものがなかったものだから……。生憎今夜は男の友人しかいないものでね」
 ふと男の両側で一緒に食事をしている二人の人物に目が行った。
 左側の男性――(男がそう言うのだから、男性に違いないのだろう)は、黒く艶のある髪に白い肌、赤い唇が美しい、まるで女性のような風貌をしている。長い睫毛と、整えられた黒い爪、細長い指先--、どこを見てもうっとり魅入ってしまう美しさだ。すると、男はそんなカタリーナを紅い瞳でねめつけた。
「おやおや、私に何か言いたいことでも?」
「あ、いっ、いえ!あんまり綺麗なものだから見惚れてしまって」
 はぁ、と男は大きな溜息をついて、皿の上で切った肉を口に運んだ。
「もう、そんなに露骨に嫌な顔しなくたっていいじゃないですか」
 今度は美しい男のちょうど反対側に座る男が口を開いた。こちらはシルクハットの男と年齢のそう違わない、それか少し年上の老紳士といった風だ。とはいえ正反対の雰囲気で、襟や袖口には大きなフリル、胸元には大きな紫のリボンをあしらった随分かわいらしい服を着ている。白髪と白い肌に、ライトブルーの瞳が映える。
「褒められたのだから素直に受け取ればいいのに。ねぇ?」
 老紳士は大げさに肩をすくめてみせた。青い眼玉がころんと転がってこちらを見る。なんだか無邪気な子供にも見えるその視線を向けられると、不思議と肩の力が抜けるような気がしてきた。
「申し訳ありませんね。夜分に戸を叩く非常識な方がいらっしゃったもので。せめて貴女が幼く愛らしい子供でしたら、私も喜んで迎え入れたのですが」
 美しい男は眉間に皺を寄せて、ナプキンで口元を拭った。
「ご、ごめんなさい」
 いたたまれないカタリーナは思わず頭を垂れる。
「はは、相変わらずだな君は」
 男のそんな態度には慣れている様子で、シルクハットの男は軽く笑う。
「もう、失礼しちゃいますよねぇ」
 青い瞳の老紳士も、男の返事は想定内といった様子で笑いながら立ち上がり、自分の傍らの椅子を引いた。
「どうぞ、お嬢さん。料理が冷めてしまいますよ」
 促されたはいいものの、先ほどの美しい男の一言で、やっぱりあまりに図々しすぎるという罪悪感が込み上げてきたが、それ以上にとても空腹だった。ちらりと食卓に目をやると、華やかな装飾の食器の中で湯気を立てるスープやチキン、台に盛られたつやつやのフルーツたちなど、胃袋の理性を失わせるものばかり――。
「……ありがとうございます。いただきます」
 カタリーナは抗えず椅子に腰をおろした。パンだけでもいい、とにかく胃に何か入れたかった。
「なにが食べたい?皿に取らせよう」
 シルクハットの男が指を鳴らすと、再びどこからともなく召使が皿をもって現れた。
「え、えっと、じゃあ、パンを一つ、ください」
「えっ、それだけでいいんですか!?」
 おなかすいてるでしょう!?と隣の老紳士が目を丸くした。とはいえ嵐の中突然押しかけて、友人同士の団欒を妨げている身……。パン一つでも充分贅沢だとカタリーナは思った。
「大丈夫です。疲れているのかな、おなかが空いてなくて」
 召使はパンを三種類ほど、それからバターやジャムをいくつか添えてカタリーナに運んだ。ふわ、と香ばしい匂いが漂う。ごくりと思わず唾を呑んだ。手に取ってみるとまだ温かく、焼きたてであることが分かる。両端を持って割ってみると、白い湯気と共に甘い香りが漂い、もっちりした白い生地が現れた。
「わあ……!」
 思わず感嘆の声をもらす。ふふっ、という声に顔を上げると、シルクハットの男と老紳士が、微笑みながらこちらを見ていた(美しい男は相変わらず素知らぬ顔であったが)。
「美味しいですよ。どうぞ」
 老紳士に促されるまま、ひとくちかぶりついた。
(――!おいしい……!)
 もちもちの触感、温かくて素材そのものの甘さのパン。いつも村で食べる硬いパンとは到底比べ物にならない。あっという間に一個を平らげ、二個目に手を伸ばす。割ってみればまた湯気がたちのぼる。今度はバターを少しナイフで掬い取り、乗せてみた。パンの熱でとろりとバターがとろけて、また甘い匂いが香る……。
「あっ」
 皿に手を伸ばして、いつの間にか皿が空になっていることに気が付いた。
「ほおら、やっぱりお腹空いてるじゃないですか」
 カタリーナのその行き場のない手を見て、老紳士が笑った。
「料理を一通り取ってあげてください」
 老紳士が手を叩くと、さらに召使が現れて、テーブルの上の料理を少しずつ取り分けてくれた。コーンのスープ、鴨のロースト、鯛のムニエル……絵本の中でも見たことのないような、初めて見る料理の数々に、カタリーナの目は輝いた。どれもこれも、一口食べれば手が止まらない。
 美しい男が「まるで豚のようですね」と毒づいたのも聞こえないほどに、夢中で平らげた。

 


「さて、少しは気持ちが落ち着いたかね」
 お腹が満たされ、今度は眠気に襲われていたその時、シルクハットの男が語りかけてきた。他の三人も食事を終え、食後のドリンクを傾けていた。
「あ、はいっ!すっかり元気です。ありがとうございます」
 それはよかった、と男は笑った。
「名乗るのが遅れてすまないね。私はライオネル。そして彼がエウメネウス――……私はメネウスと呼んでいる」
 ライオネルは美しい男の方を見やった。相変わらず不機嫌そうな様子で、カタリーナは思わず身をすくめた。
「そして彼は――……彼の本当の名前は私も知らないんだよ。彼は自分のサーカス団を持っていてその団長を務めているんだ。だから、"団長"とでも呼んでやっておくれ」
 "団長"と呼ばれた老紳士はにこにこ笑ってはぁい、と手を振った。
「私はカタリーナと申します。この森の近くの村に住んでいます」
 カタリーナも寝ぼけ眼をこすって頭を下げた。
「そうか、カタリーナ。君はあんなところで一体何をしていたんだい?」
「近く特別な友人が結婚式を挙げることになっていまして。それで、いつだったかこの森にとっても綺麗な花があったのを思い出して、その花を摘んで帰ってその子のブーケに添えてあげたいと思って森に入ったんです。そしたら突然嵐が来て、村への帰り道すらわからなくなってしまって」
「ああ、だから来たとき花を握りしめていたのか」
 ライオネルは合点がいったという風に頷いた。
「そうなるとすまないね。君が館に着いたとき、あまりにもぐちゃぐちゃだったものだから、こちらで処分させてもらったんだよ」
「あ、いいんですどうか気になさらないで!どのみちあれじゃ、ブーケに使えませんから……」
 ふと、親友の笑顔が頭を過ぎる。どうしようもないと頭では分かっていても、悔しいものは悔しい。
「友人も楽しみに待っていると言ってくれていたので、心残りではあるのですが」
「それは大変でしたねぇ」
 団長は苦い顔をして聞いている。
「そう言うことだったのだね。しかし……ふうん、マリーゴールドの花か」
 ライオネルがポツリと呟いた。
「へぇ、"マリーゴールド"というお花なんですね。私村で育ったから、花の種類とかそういうのに疎くて。綺麗なお花ですよね!」
「ええ、キレイな花ですよね。実に"あなたらしい"」
 突然、メネウスが小さく笑った。
「ああ、贈り物にはぴったりだと思うよ」
 ライオネルも頷いた。カタリーナはメネウスの突然の笑みに首をかしげる。お花が好きなのかしら?とそんなことを思った。
「それで。結婚式はいつなのかね」
「実は、明日なんです」
「明日!?」団長が驚きの声をあげた。「じゃあ急がなくっちゃいけませんね」
「そうなんです。だから明日の朝早くにここを出ていきますので――」
「そうですか、朝食はご一緒できなさそうですね……残念です」
 団長は心底残念そうにがっくり肩を落とし溜息をついた。他の2人に比べこの団長という人物は感情表現が豊かで、表情がころころと変わる。
「花の件は残念だが、せめて結婚式に間に合うといいね。その服はそのまま着て行きたまえ。着て来た洋服も、洗って夜のうちに部屋へ届けさせよう。明日の朝森が明るくなって道が見えるようになったら出ていくといい」
「ありがとうございます……!」
(オゼット、あなたの結婚式に私、間に合うかも!待っててね……!)
 カタリーナはほっと胸を撫で下ろした。

 

†††

 まるで雲の上にいるみたいにふかふかなベッドの中で、カタリーナはまどろんでいた。自分が三人並んで眠れそうなほど大きなベッドはなんだか落ち着かなかったが、それでも満腹感と森を一日中歩き回った疲労感によって、睡魔はいとも簡単にやってきた。
(一時は死んじゃうかと思ったけど、こうして生きていて、優しい人たちにも出会えて、まるでお姫様みたいな体験もしちゃった。……ああ神様、感謝してもしきれません)
 瞼の闇の中で、カタリーナは神に祈りを捧げた。やがて手足がどんどん重くなり、このまま眠りに落ちてしまおう……と思った、その時だった。


「ギャーーーーッ!!」

 

 ――悲鳴だ。目を見開いた。甲高いそれは子供のものにも聞こえたが……。
(いいえ、きっと気のせいよ……)
 外の雷の音がそう聞こえたに違いない。いや窓のきしむ音か?木々のこすれる音かも――……?そんなことを考えているうちに、すっかり目が覚めてしまった。慣れない雰囲気に呑まれているのか、再び眠ろうとすればするほど恐怖は膨らむばかり。
(誰か起きてないかな?)
 淡い期待を抱いて、カタリーナはベッドからそろりと出た。先ほどあの三人と別れた時、三人は確か「もう少し遊んでから休む」とそう言っていた。あれから少し経ってしまったけれど、もしかしたらまだ起きているかもしれない。メネウスという人には特に迷惑がられてしまうかもしれないけど、眠気が戻るまで一緒に居させて貰いたい……。意を決してドアノブに手をかける。
 来客用寝室の扉を開けると、エントランスの吹き抜けまで伸びる廊下がある。廊下には照明があるものの、最小限の明るさといった風で薄暗い。とりあえず、道を覚えている食堂へ向かうことにした。そろりそろりと廊下を進み、突き当りの吹き抜けの階段までたどり着いたら、転ばないように慎重に下りる。
 もう三人とも眠ってしまったのだろうか、一階の照明もわずかなランプの明かりのみで、ほとんど闇に近い。明るいうちにはおとぎ話のお城に見えたが、この闇の中ではまるでお化け屋敷だ。
(なんだか、余計にこわくなってきちゃった)
 寒気がして、部屋に戻ろうとしたその時、食堂の扉がわずかに開いており、光が漏れていることに気が付いた。
(よかった!まだ誰か眠らずにいるみたい!)
 誰でもいい、迷惑がられても、隣で座っているだけでもいいから、とにかく安心したかった。足早にドアに駆け寄り、そっと中を覗く。
(あれ……?)
 明かりは確かについている。しかし中には誰一人いない。あれだけいた召使すら一人も姿が見えない。視線を巡らせていると、部屋の奥の壁に扉があり、しかもそれがかすかに開いていることに気が付いた。食事をしている時には気が付かなかったが、どうやら更に奥に部屋があったらしい。
(もしかして、料理を作るところなのかな?こんな時間に、料理……?)
 無性にその扉の奥が気になったカタリーナは、何かに操られているかのようにゆらゆらと長いテーブルを横切り、扉に手をかけ、こっそり中を覗いた。


 中はやはり厨房だった。しかし一般的な厨房よりも明らかに広い。壁際の戸棚は豪華な装飾がふんだんに施されたものばかりで、ガラス張りの引き戸の向こうには、見たこともない小瓶(おそらくスパイスや調味料だろう)が所狭しと並んでいる。またそれ以外にも、角の生えた馬の石像や絵画など、料理には関係のない調度品も並べられている。調理専門というより、趣味で料理を楽しむ部屋なのだろう。
 そして正面奥の調理台には、メネウスの背中が見えた。肩が揺れているので、おそらく何かを刻んでいるのだろう。
(料理が趣味だなんて、意外……)
 食事中の細い指先と紅い爪を思い出しながら声をかけようとして、はっと喉を詰まらせた。

 


 ――――調理台の上の"それ"と目が合った。

 


 "それ"は丸くて大きな目をがっと見開いて口を大きく開けたまま、調理台の上に横たえられている。カタリーナにはそれが、"人間の子供の頭部"にしか見えなかった。
(そんな、まさか)
 見間違いに違いないと何度も目をこすった。しかし何度見ても”それ”は、恐怖が顔にこびりついた子供の頭にしか見えない。ともすれば今メネウスが切り刻んでいるものは?じゃあさっき聞こえてきた悲鳴はもしかして----。
 一気に体中の血の気が引いた。逃げなければ!一歩後ずさったその時だった。
 ハァー、という大きな溜息と共に、ドン、という何か重いものが突き刺さるような鈍い音がした。
「だから酒でも飲ませて眠らせてしまえと言ったのに……」
 まるで独り言のように呟かれたそれは、明らかにカタリーナに向けられていた。
「おやおやどうやら見てしまったようですねぇ……。幼い頃、お母様は読み聞かせてくれませんでしたか?『行き過ぎた好奇心は身を滅ぼす』と。--全く困りましたね。本当なら私は愛らしい子供たち以外この手にかけたくないのですよ。残念なことに、今はそうも言っていられないようですがね――!」
 振り返ったメネウスは、深紅の唇の間から尖った歯を剥き出しにして、その美しい顔を歪ませてこちらを睨んでいた。まるで悪魔そのもののような形相だ。
「あ、あの、ごめんなさい」
 あまりの気迫と恐怖で逃げるタイミングを失ってしまったカタリーナは、震える声で謝罪の言葉を絞り出した。しかし当然、今のメネウスには何の意味も成さない。
「あの、私、何も見なかったことにしますから!」
 咄嗟に出てきた言葉は命乞いだった。とにかく殺されたくはなかった。今は。それでもメネウスは汚らわしいものを見るような(実際に、本人には汚らわしいものに見えるのだろう)紅い瞳でぎろりとカタリーナを見下ろしたままだ。
「それは賢明な判断ですね。まぁ、どのみちすぐに口もきけなくなりますから、無意味ですけれど」
 おもむろにメネウスが背中に右手を隠す。再び右手を取り出すと、まるで手品のように、背中から大きめの包丁がずるりと現れた。よく砥がれているであろうそれは、部屋の明かりでぎらぎらと光り、まるで血に飢えた殺人鬼のようだった。
「きゃああーーーーっ!!」
 恐怖のあまりカタリーナは、厨房の扉を乱暴に閉めて逃げ出した。脚が震え、もつれて転ぶ。ぎぃ、とドアが開き、カツカツカツ……とヒールが音を立てるのが聞こえる!振り返って確かめる余裕はない。歯を食いしばって立ち上がり、食堂の扉を開け放ち飛び出す。エントランスに出れば、すぐ近くに屋敷の玄関の大扉がある。
(とにかく逃げなくちゃ!)
 カタリーナは真っ先に大扉へと走った――しかし。
(えっ、開かない……?)
 鍵がかかっている。普通の建物ならば、内側からの鍵の開け閉めは自由なはずだ。しかし玄関の扉は押しても引いても、どこをどう触っても開かない。よく見ると、取っ手の部分に大きな南京錠がかけられている。
(閉じ込められた!)
 パニックになって後ろを振り返ったその瞬間――……轟音と共に雷の光に照らし出されたのは、包丁を振り上げるメネウスの姿。
(神様――!)
 もうダメだ、目をぎゅっと瞑って死を覚悟した、その時。

 


「もう充分だよメネウス君」

 


 闇の中から低い声が響き、やがてシルクハットを被った男--ライオネルが現れた。
「ああ、貴方本当にいいタイミングで声をかけますねぇライオネル」メネウスは悪態をついて包丁を下げた。それを確認したカタリーナはぺたんと尻もちをつき、大扉にもたれかかる。
「ライオネルさんこれは、一体……?」
 ライオネルはふふ、と怪しく笑っている。それがこの屋敷に迎え入れてくれた時の微笑みとあまりに違うもので、カタリーナの背筋が凍った。
「なに、怖がることはない。我々はゲームが好きでね。君が寝る前に言っただろう?『少し遊んでから休む』とね」
 ライオネルは玄関扉の大きな南京錠を指さして言った。
「その大扉の鍵は屋敷のどこかに隠してある。出たかったら死に物狂いで見つけることだね。この死に物狂いというのはまぁ、形容ではなくて……もし屋敷の中でさまよう君に出会ったら、我々は君を殺すつもりで追いかける。生きて帰りたければ必死で逃げることだ」
「そんな!?そんなこと、どうして--!?」
 ライオネルの言っていることの意味が理解できず、目を白黒させて、目の前に立つ彼を見上げることしかできなかった。――食事をした時の彼の笑顔は、こんなに悪意に満ちたものだっただろうか?
「どうして?愉快だからさ。久しく客人が居なかったものだから、三人とも退屈しきっていてね。マスターなんかは今ここにいないが、張り切って準備をしているようだよ」
("マスター"……"団長"さん!?)
 食卓を共に囲んだ時の、物腰穏やかな老紳士の笑顔を思い出す。まさかあの人も、自分を殺そうとしているなんて!
「人を弄ぶなんて、酷すぎるわ!」
 騙されたことへの怒りなのか、恐怖からの混乱なのか、それともその両方か、カタリーナは両の拳を握りしめて叫んだ。
 それでもライオネルは狼狽えるどころか、ますます面白そうに笑うだけだった。悪びれず言い放つ。


「すまないねぇ、その顔が見たかったものだから」


 言葉が出なかった。そして悟った。「何を言っても無駄なのだ」と。
「相当ハンデを与えているのですよ、貴女には。せめて暇を潰せるぐらい、劇的に逃げ回って頂きたいものです」
 メネウスは黒い爪を弄りながら不満そうに溜息をついた。その紅い目は相変わらずカタリーナを睨みつけ、一刻も早く殺したいと訴えている。
「その通り、鍵さえ見つければ生きて帰れるのだから」
 さて、とライオネルは改めてカタリーナに向き直る。
「そろそろ始めようじゃないか。私たちが消えたらスタートだ」
 そんな、どうしよう――。困惑したままのカタリーナを見下ろして、ライオネルは口角をつりあげる。

 

「大切な友人の結婚式に、間に合うことを祈っているよ」

 


 ライオネルとメネウスは踵を返し、すっかり暗くなった屋敷の闇の中に消えて行く。二人の高笑いが暗闇の中に響き渡った。

 

 


 

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