top of page

 

「おやおや驚いたよ。先程あれだけ食べたばかりじゃないか。まだ食べ足りないと言うのかね?」

 ――――しまった!

 カタリーナは咄嗟に声の主、ライオネルの方を向いた。

 まるで亡霊のように闇の中から現れたライオネルは、キッチンの食器棚を手当たり次第にかき回すカタリーナの姿を目にとめ、ふんと鼻で笑う。

「いやぁ若々しくて何とも羨ましいことだねぇ。しかしお嬢さん、深夜の盗み食いは身体によろしくないよ」

「ち、ちがう!私は食べ物じゃなくて、鍵を――!」

 食いしん坊扱いに思わず前のめりになって反論したその瞬間、カタリーナのほほを何か冷たいものが掠った。

「え……」

 その場所はじわじわと熱を持ち、次第に脈打ち始めた。恐る恐るその場所に手を添えてみると、温かいものが頬を伝っていることに気が付く。指先にまとわりつくそれは、紛れもなく血だ。

「ああそうだろうねぇ。鍵を探しているんだろう?それなら、私はキミを殺さなければならない」

 服の中から何本もの小型ナイフをおもむろに取り出し、ライオネルはいやらしく笑った。

「ひいっ……!」

 頬の傷は彼が投げたナイフによるものだとわかると、カタリーナは弾かれたように逃げ出した。拳が力み、脚が変に強張って何度も転びそうになる。だがしかしそれが偶然にも、背後からの投げナイフをかわす形になっていた。

「ははは、ダンスは苦手なようだが、なかなか粘るじゃないか!」

 ライオネルは眼鏡の奥の赤と青の瞳をぎらりと光らせ、悠々と歩きながら指先のみを巧みに動かし、ナイフを投げる。

 食堂を飛び出し、暗闇の中手探りで大階段の手すりに縋り付き、慌てて2階へ階段を昇る。しかし昇ったところで、この廊下の先は行き止まりだということは分かっていた。

(どうしよう、どうしよう…!)

 完全にパニック状態になったカタリーナの目には涙が浮かんでいた。いっそ走るのを止めてしまおうか、そう思い始めていたその時だった。

 

 ――おい、おい!

 

「えっ?」

 どこからともかく声が聞こえた気がした。

 

 ――こっちだこっち。逃げられる場所、教えてやる。

 

 走りながら視界をめぐらせても、どこにも姿が見当たらない――そのとき。

「ニャーン」

 足元を暗い影が横切る。そしてそれの赤い光と目が合った気がした。

(もしかして、ついて来いってこと!?)

 背に腹は代えられない。カタリーナは赤目の黒猫のあとを追った。

 

 黒猫は扉が少しだけ開いていたある一室に滑り込むと、そのままクローゼットの中へと飛び込んだ。

「ニャ―!」

「そっか!この中に隠れればいいのね!?」

 カタリーナは身を縮めて、黒猫をお尻で押しつぶさない様に気を付けながら、クローゼットの奥へ身を隠し息を殺した。外の様子に聞き耳を立てる。

 やがて、ガチャッという音のあとに、コツコツという靴の音が入ってきた。音は部屋の様々なところを彷徨い、そしてクローゼットの前で立ち止まる。

(まずい……!)

 息を呑んだその瞬間、再びドアが開く音が聞こえた。

 

「私の部屋に断りもなく侵入して、どういうつもりですか?ライオネル」

 メネウスだ。どうやらここはメネウスの私室らしい。見つかったら、タダでは済まない気がする――(どっちにしろ殺されるが!)――鼓動が速くなる。

「いや、例のお嬢さんがこちらへ来たような気がしたのだがねぇ。あとは猫の鳴き声も」

「それなら私のレディ・ラベットでは?今は散歩の時間でいろいろなところを歩き回っているはずですから」

「……せめてゲームの邪魔をしないように躾けておいてくれたまえ」

「おや、騒々しいことが嫌いなあの子が邪魔するはずがないじゃないですか。貴方こそ、気を付けたほうがいいですよ。彼女の散歩を邪魔してご機嫌を損ねないよう」

「はぁ、やれやれ」

 

 ――――バタン。

 

 やや乱暴に扉が閉められた後、長い静寂が訪れた。

(逃げ、きれ、た?)

「ニャーン……」

 黒猫がどいてくれというような不満気な声で鳴いた。慌ててクローゼットを開け放つと、ひょいと身軽に飛び出す。

「あ、ありがとう。あなたのおかげよ。ええと、レディ・ラベ――」

「いいや、俺様はオスだぜ」

 突然、どこからともなく低い男の声が聞こえてきた。思考が停止する。

「いや、正確には"男"だな」

 あの3人の誰でもない声――ハッと意識を取り戻し警戒を強める。あたりを見渡しても誰もいない――今足元で自分を見上げている黒猫以外は。

「ようお嬢ちゃん、せっかく逃がしてやったんだ。ご褒美よこせよ」

(ひいっ!)

 黒猫は流暢に人間の言葉を話した。それに、「逃がしてやった」という言葉――。

「もしかして、さっき暗闇から聞こえた声も、あなたなの!?」

 カタリーナの困惑を楽しむように、黒猫はニヤニヤ笑っている……気がした。

「ご、ご褒美って言ったって、私なんにも持ってないわ……」

「何言ってんだ、手にしっかり握りしめてるじゃねぇか。俺様はそれが大好物なんだ」

 小さな手で指差されてはじめて、右手に小さな袋を握りしめていたことに気が付いた。戸棚をひっかきまわしてそのまま逃げてきたのだ。その時思わず掴んでそのまま走ってきてしまったのだろう。あまりにも逃げることに必至すぎて気が付かなかったらしい……。なんだか全身の力が抜けてしまい、カタリーナはへたり込んだ。指先にぴりぴりと一気に血液が巡るのが分かる。

 手からぽろりと落ちた袋を拾って、黒猫はニャーオと鳴いた。田舎育ちのカタリーナが見たこともないそれは、きっと都会の食べ物なのだろうと思った。カサカサと音のする特殊な素材で枕のような形のその袋には、「ぽてとちっぷすごーぢゃす」と金ぴかの文字で書いてある。

「よく見たらこれ、上等なヤツじゃねぇか。お前やるなぁ。よーし決めた」

 しばらく袋にじゃれていたかと思うと、突然黒猫の姿が黒い霧に包まれた。正確には黒猫自身が黒い霧になったと言うべきか。霧は渦を巻いて次第にカタリーナの身の丈を越え……人間の姿へと姿を変えた。

 光を呑み込んでしまいそうな真っ黒なロングコート、生気を感じられない白い肌、骸骨のように落ちくぼんだ左目と、もう片方には不気味な仮面……。こちらを見下ろしてギザギザの歯がニヤリと笑った――。

「きゃ……!」

「おい止せ、また追いかけっこしてぇのか!」

 黒い男は慌ててカタリーナの口を塞いだ。混乱したままだったが、男の言葉にハッとして叫びそうになった口を閉じる。男はヤレヤレと口から手を離してカタリーナを見下ろした。

 どうやらあの3人と違ってすぐに獲って食うつもりではなさそうであるが、それにしても姿形は怪しい。なにより猫から人間に変身して見せるという魔法のようなことをしてのけたのだから、とにかく怪しい。

 一方カタリーナのそんな疑念をよそに、真っ黒な男は上質なカウチにどっかりと腰かけ、「ぽてとちっぷす」の袋を乱暴に破り、中身をぼりぼりと食べ始めた。丸くて平たいそれはやはりカタリーナの見たことのない食べ物だった。しいて言うならば、断面の形がじゃがいもに似ているかも?

 そんなことを考えていると、男と目が合ってしまった。

「そんなに恨めしそうに見るなよ。腹減ってんのか?ホラ」

 そう言って1枚差し出される。特段お腹が減っているわけではなかったのだが、この薄いじゃがいものようなものに興味があった。

「いただきます」

 手に取って口に放り込んだ。中でぱりぱりと小気味いい音を立てて割れるそれはかなりしょっぱい。でもほんのりとじゃがいもの味がして美味しい。

「しょっぱいですね、でもおいしい」と、そのままぽつりと呟くと、

「おう。しょっぱいけどおいしいだろ」

 ぼりぼりと食べ続けながら、男もそのまま返した。そんなやりとりをしていたら、漠然と、この真っ黒な男はそんなに悪い人(人間なのかは定かでないが)ではないのではないかとそう思えてきた。

「何者ねぇ。まぁ、名乗る時は"死神"かねェ」

 "死神"。書物に明るくないカタリーナでも一度は聞いたことがあった。母か村の人に教えてもらったのだったか。確か、死者の魂を迎えに来るとか、なんとか――。

「言っとくが、現状お前の魂を奪いに来たとか迎えに来たとか、そういうのじゃないから、取り乱すなよ」

 ズバリ不安を先読みされて、平静を取り戻す。「現状はな」と男は釘を刺すように言い、ぽてとちっぷすをまた1枚放り込む。

「じゃあ死神さん、どうして私を助けてくれたの?」

 そこでようやく、死神はぽてとちっぷすを口に運ぶ指を止めた。白い顔をぐるりとこちらに向け、ぎょろりとトカゲのような赤い瞳がカタリーナを捉える。三日月のように口角が吊り上がった。

「ようやく本題に入っても良いんだな?要は簡単だ。俺様と取引しようじゃねぇか」

「とりひき……?」

「俺様は五体満足でお前をこの館から逃がす。そのかわり、お前は奴らから"あるもの"を奪い取って俺様によこすんだ」

「"あるもの"?」

 首をかしげるカタリーナに、死神は人差し指と親指をくっつけ輪を作り、ずいと突き出した。

「このぐらいの丸っこくてキレイなヤツさ。それはとんでもなく強力な魔力を持ってる。だから奴らはそれを大事に隠し持ってるってわけだ」

 死神によると、それはもともとある人物のものだったが、あの3人組(正確にはそのうちの1人)によって奪われた。それが持つ魔力によってあの3人組はこの館を作り、嵐を巻き起こし、人間を迷い込ませてはいたぶって楽しむことを繰り返しているというのだ。

「どうしてそんなひどいことを……」

「嬢ちゃん、あんたは花を摘むことを悪いことだと思うか?ウマい飯を食うことも、歌を歌うことも。それを悪だと思ったことがあるか?」

「……いいえ」

「奴らにとっちゃ、それと変わらないのさ」

 男はニィと笑った。その笑顔だけはあの3人と変わらないように見えて、背筋が凍る。

「さて、とは言ったものの"それ"のある場所は俺にもわからねぇんだ。さっさと探しに行こうぜ。奴らが戻ってくる前によ」

 ぽてとちっぷすの袋を乱暴に懐に詰め込んで(どう考えてもスマートなコートの中には入りそうになかったが、吸い込まれるように消えてしまった)、死神は立ち上がった。

 

 

 死神は館の構造に詳しかった。探し物を求めてずっと館の中を彷徨い歩いていたからだという。どこにどんな部屋があるか、そこに隠れる場所があるか分かるだけでもカタリーナにはありがたい。

 それに一人ぼっちじゃないということも大変心強かった。話し相手がいるというのは、恐怖心を和らげ、冷静さを取り戻してくれた。といっても、その話相手の姿は今傍らにはなく、カタリーナの足元――"影"としてそこに存在している。どうやら死神は色々な姿になれるらしい。死神は死神でも、きっとすごい死神なのだろうと考えを巡らせていたところで、ふと過ぎった疑問を尋ねてみた。

「そんなにマリョクの強いものなら、死神さんはすぐに見つけられるんじゃないの?」

「あのなぁ、犬のニオイだらけの部屋で子犬のニオイを嗅ぎ分けられると思うか?強力な魔力の中で作られたこの館の中じゃ、魔力だらけで不可能なんだよ」

 なるほど~と手を叩くカタリーナに、死神はヤレヤレとため息をついた。

「全く呑気だなァ。言っておくが、俺様の目的はお前の護衛じゃなくて探し物なんだからな。のんびりしてていつの間にか死んでました~じゃ、責任取らねぇからな」

「は、はい」

 それから死神は、例の3人についても、彼の知っている範囲ではあるが教えてくれた。

 まず黒いシルクハットの男ライオネルは、賭け事が好きだがペテン師でもあり、イカサマを仕掛けてくることもある。必然的にイカサマを見破ることにも長けているため、一筋縄ではいかない男である。出来れば同じ土俵で戦いたくない相手であるということ。またそうでなくとも拳銃やナイフも自在に操るため、できれば遭遇したくないということ。

 青い目の老紳士"団長"については、死神にも本当の名前は分からないらしい。サーカスの衣裳を身に纏うと豹変(というより、本性を現す)らしく、獲物を精神的、肉体的にとことん追い詰めてくる。加えて彼が"傀儡"と呼ぶ、手下たちを大勢従えているため(この屋敷の使用人たちは全て彼の手下らしい……)、やっぱりできれば遭遇したくないということ。

 そしてとくに死神が毛嫌いする黒づくめの男エウメネウスについて。彼は子供の血肉を愛するカニバリストなので、カタリーナの年齢では執拗に追いまわされることはないと思うが、ただし彼が"探し物"を持っている可能性は高いという。それを狙っていることを知られれば、相手も本気で阻止してくるだろうとのことだ。

 改めて、自分はとんでもないところに迷い込んでしまったと身を震わせた。死神がこんなにも3人に詳しいのも、何人もの犠牲者たちを眺めてきた結果だというのだ。

「これまでの犠牲者の皆さんって――」

「みんな死んでる」

 表情ひとつ変えず死神は言い放つ。

「生きて帰ったヤツはいねぇよ。だからあんたも頑張るこった。もし生きて帰りてぇならな」

「……当然、生きて帰るわ」

 カタリーナは震える手をきゅっと握りしめた。

「明日は大切な親友2人の結婚式なの」

「結婚式?てか、明日ァ?」

「そう、幼馴染でジゼルとジークフリードって言うんだけれど、2人が明日結婚するのよ。本当はジゼルのためにこの森で見つけたきれいな花をブーケに添えたくて……それで迷い込んでしまったの。昔から大好きだった2人の幸せだから、ちゃんとお祝いしてあげるって約束したのよ。だから……必ず生きて村へ帰るわ」

「ふうん、そうかい」

 死神はやっぱり表情を変えることなく「だったらちゃんと見つけねぇとな」とだけ言った。

 

 

 死神とひそひそと会話しながら、そろそろと歩みを進める。先程のメネウスの私室には死神の探し物も、カタリーナの鍵も無かったため、1階へ降り、先刻メネウスに出くわしたキッチンに向かおうとした、その時だ。

――――グルルルル。

 背後の暗闇の中から、地を這うような唸り声が聞こえたような気がする。それはまるで、大型の獣のような……。

「まずい、"奴"のライオンだ。どこかに隠れ――」

 死神が言い終わらないうちに、唸り声の主は闇の中から姿を現した。大きな口、立派な鬣、鋭い牙。まさか、こんな場所で見るとは思わなかったが、あれはまさしく絵本の中でしか見たことのなかったライオンだ!

 ライオンはガオオ、と一つ吠えると、一直線にこちらへ向かって突進してきた。

「走れ!キッチンまで駆け込むぞ!」

 腰が抜けそうなのを何とか奮い立たせて、カタリーナは走り出した。ライオンの突進の進路上を外れて、急いで階段を降る。ライオンもその大きな体を翻し、視線は再びカタリーナを捉える。

(まずいな、完全に手中だ)

 本来狩猟の際のライオンの脚の速さがこんなものでは済まないことは、死神にはわかっていた。このライオンは"手懐けられている"。

(食い殺しはしない、追い詰めるだけだ)

 キッチンに向かうカタリーナが食堂に飛び込もうとすると、ライオンは扉の前に立ちはだかり唸り声をあげる。

「あ……あ、どうしよう……」

(こうなりゃイチかバチかだ)

 震えて後ずさりするカタリーナに死神が囁いた。

「カタリーナ、後ろだ!背中の方にある扉に飛び込め!」

 カタリーナが振り返ると、ライオンとは真反対の位置にもひとつ小さな扉があった。一目散に走り出し、飛び込んでドアを閉める。するとライオンは、ドアに飛び掛かったりすることもなく、ただカタリーナが戻ってこないように足止めするかのように、大人しく扉の前に座り込んだ。
 

「はあっ、はあっ……」

 肩で息をして、再び駆けだそうとするカタリーナを、死神は引き止める。

「もういいぜ、追ってこねぇよ」

「どうしてわかるの?」

「あのライオンの……いや"奴"の目的は、この先の部屋へ導くことだからさ」

 2人の先には薄暗い廊下が伸びている。先は曲がっているようで、どうなっているのかは分からない。

「明らかに罠だが仕方がねぇ。ハマってから抜け出す方法を考える」

「そ、そんなぁ……」

「生きて帰るんだろ?」

 死神の声に弱弱しくも頷いて、カタリーナは廊下をひたひたと歩き出した。

(さて、どうしたもんかな……)

 不安げなカタリーナをよそに、死神は黙り込んで、ひたすら次の手を思案するのだった。

bottom of page