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じ~たいさくほんぶ。
序
神、天使、悪魔、幽霊、魂、死後の世界、祟り、呪い、エトセトラ。
誰だって知っているのよ。そんなものはこの世に無いと。
たった一つの真実は、科学がもたらす「結果」だけ。
不可思議なことなんてもはや無い。科学がすべてを教えてくれる。
この世界の基軸は科学、人間の知恵と技術がもたらすものだけ。
そう、できないことを神にすがる時代は終わったの。
「オー・マイ・ゴッド」なんて死語よ。叫ぼうものならキチガイ扱い。
これから人類は自分達の力で道を切り開いていくわ。
そう、存在しないの。
存在しないのよ。
だけど、それなら
この胸の痛みは、何処からくるのかしら。
そして、一体何処に返せばいいの――。
一章 少女の歯車が狂った日
(くだらないわ)
少女は溜息を吐いて瞳を伏せる。
この時間、彼女が選択した講義は「世界史」。進級には必須の科目であるとはいえ、彼女はこれが嫌いだった。特に、今日のようなテーマになると、彼女は一層不機嫌になる。
"宗教改革"それが今日の講義のテーマだった。彼女は気だるげにフォルダをクリックし、画面に従って本人認証のための個人情報を入力する。
氏名:相田 望
フリガナ:アイダ モチ
パスワード:●●●●●●
承認が完了すると、ディスプレイには多彩な資料が表示され、ヘッドセットからは講義の音声が流れる。これが現代教育の最先端のスタイルである。個々専用のパソコンで、自分に適した学習スタイルを選択し、個々のペースで授業を受ける。全員で同じ内容の講義を聞く必要はもはや無いのである。「個々の学習スピードを考慮すべき」という、世論を尊重した結果生み出されたシステムだ。
――16世紀、政治的に分裂していたドイツでは、メディチ家出身の教皇レオ10世の指示により、贖宥状(免罪符)が販売されることになった。教会のために善行を積めば、その功績によって過去の罪も許されるとして販売されたものであるが、これはローマのサン=ピエトロ大聖堂の改修工事費用調達のためにすぎなかった。
その最中、マルティン=ルターは、1517年九十五ヵ条の論題を発表し、教会による贖宥状販売の悪弊を攻撃した。ルターは「救済は善行を積むことではなく、キリストの福音を信じることに因るもの」とし、教皇派に反発する諸侯や市民、農民達など、ドイツの広範な社会層の支持を得ることになる。
これがきっかけとなり、新教と旧教の分離へとつながることになった。
その過程にはライプチヒ討論(1519)、ドイツ農民戦争(1524~25)、シュマルカルデン戦争(1546~47)などがあり……――
――戦争。その言葉を聞いた瞬間、望はすぐさま資料の脇に添えてある「応用データベース」のフォルダを開く。試験に問題として出題される以上の詳しい関連情報が詰め込まれたデータベースである。そこにはそれらの戦争のおおよその死傷者の数が記されていた。その数値を見るなり、望は眉を顰める。
(本当に、くだらない)
憤りに近い感情を理性で抑え込んで、望はデータベースを閉じた。
講義の終了を告げるチャイムが鳴るや否や、ヘッドホンを外して早々にシャットダウンする。今日のノルマの講義はすべて終了した。望は黙々とノートや参考書を鞄にしまう。
「相田さん」
声をかけられ顔を上げると、自分と同じ制服を着た少女が立っていた。……確か、同じクラスの生徒だったはずだ。望は思い返す。見覚えはある、しかし記憶にはない。
「……ごめんなさい、あなた何て名前だったかしら」
言葉とは裏腹に、望の声は淡々としていた。
「岡崎瑠都。一応、昨日も自己紹介したはずなんだけど……」
瑠都はもじもじして言う。
「そうだったかしら。」
望は、視線を鞄に戻し、帰宅準備を優先する。
「今日、この間の模試の結果、出てたね」
「そうね」
「相田さん、また学年トップだったね、おめでとう」
「トップじゃなきゃ意味がないわ」
鞄のロックをかけて、望は瑠都を見上げた。
「ここは学校よ。ここは勉強するためだけの場所。それ以外の事に意味があるの?」
「でも……」
瑠都は何か言いだそうとしては口ごもり、果てには黙り込んでしまう。そんな瑠都の姿に呆れ大きなため息を吐くと、望は立ち上がり教室を出ようとする。
「あの……っ!」
瑠都は喉から絞り出したような声で叫ぶ。望は再び溜息をつき、立ち止まる。それでも振り返ることはせず背を向けたままだ。
「今日の歴史のテーマ、『宗教改革』だったよね、相田さんは、どう思う……?」
「くだらないわよ」
望は瑠都の言葉を遮るように言い放つと、瑠都を振り返る。
「いい歳した大人が、『神様の正しい教えはこうだ』とか、そんなことで争いを起こすのよ。大体その『正しい教え』だって、誰かが伝えたものでしょう?神様から直接聞いた人間がいるとでもいうの?聖書なんて大昔に誰かが書いた妄想にすぎないわ。そんなものを何世紀も信じ続けて、バカみたい。正気の沙汰じゃないわ。こんなことが過去に行われていたなんて、世界の恥よ。神様なんていないの。神の奇跡なんて、今ではどれも現代科学で証明されてるじゃない!」
弾丸のような望の言葉に圧倒され、瑠都は呆然としていた。望はそんな瑠都の様子は意も介さず背を向ける。
「そう、私は優しいから言っておくけど」
望は、肩越しに瑠都を睨み付けながら言い放つ。
「これ以上私に話しかけても無駄よ。あなたは私の興味の対象に無いの」
眼鏡を中指でくいと上げて、望は何事もなかったかのように教室を立ち去った。
「あ~あ、かわいそぉ」
靴を履きかえるために屈んでいた望の頭上から、たっぷりと嫌みを含めた声が投げかけられた。
「あの子、根暗っぽいけどガンバって話しかけてたじゃん」
望が見上げると、腕を組み、大きな瞳で望を睨み付ける少女の姿。口元にはわずかな笑み。そしてその少女を囲むようにして、また少女が3人。
意図的に他人との接触を避ける望でも、この少女には覚えがあった。というのも、この少女の言動はクラスでもひときわ目立つのだ。ふわふわの長い金髪に、規定の着こなしとはかけ離れたピンクチェックの短いスカート。セーラーが規定であるこの学校の制服には無縁であるはずのピンクのネクタイ。ばっちりと決まったメイクに大量のアクセサリー。そして片手には赤いカバーの薄型多機能携帯電話。声は大きく、よくしゃべる。クラスの中心的存在の彼女は、嫌でも目に付いた。
「妃かなめさん、だったかしら」
気怠そうな、トゲのあるような口調で望が言うと。取り巻きの少女がクスクスと笑いあう。
「まだクラスメイトの名前もおぼえられないのぉ?」
「もう秋じゃん」
「性格わるーい」
かろうじて聞き取れる程度の声で取り巻き達は囁きあう。
「知った事か」と望は思う。
故意に大きなため息をついて、望は立ち上がる。かなめは真正面で仁王立ちのまま望を睨み付けている。
「そこをどいてくれないかしら、帰れないのだけれど……」
「あんたさぁ」
望の言葉をかなめが遮った。
「あたまいーからって調子こいてるとぉ、痛い目見るよ。マジで」
かなめはずいと身を乗り出し、望に顔を近づける。それでも望は動じることはなく
「そう、ご忠告ありがとう」
そう突き放し、かなめと取り巻き達の間をすり抜けて玄関を出て行った。
「なにあいつ、めっちゃむかつく!」
かなめが吐き捨てる。夕暮れの昇降口には取り巻きたちの小さな笑い声が響いた。
浮力で滑るように移動する物静かな電車は、微塵の誤差もなくホームの番号に沿って停車した。
望は参考書(無論電子書籍である)を眺めながら下車し、ホームの階段を上る。道なりに足を動かして、やがて出る大通りの坂の途中に望の家はある。直方体と円柱が繋がったような外観が何とも特徴的で、外側に突き出た円柱部分の、辺に沿って半円を描く大きなガラス窓がとりわけ目を引く。
玄関は2階。両開きのやや重い扉を開けると、広めのエントランスに出る。
「ただいまー」
呼応する声はなく、広々とした室内は心なしか寒い。望は靴を脱いで照明をつけると、足早にリビングへ向かった。
リビングは先ほどの円柱部分にあたる。円形の室内は、人の腰ほどのカウンターテーブルでふたつに分けられている。ガラス窓側のやや広い方がリビングで、反対側がキッチンである。
望はリビングの中心にある広々としたソファに倒れ込む。何人かが並んで座るように設計されたソファーは、望の全身をたやすく受け止めた。
「疲れた」
思わず本音が漏れる。いつの時代も勉学というものは苦行のそれに近い。彼女自身も勉強が好きなわけでは無いので、例外ではない。勉強をすることはつらい。しかし彼女が勉学に費やす努力は人並み以上である。理由は単純で、彼女の"夢"を叶えるためには、勉学に励む以上の近道はないのだ。望の"夢"、それは――。
――性格わるーい。
ふと先刻の取り巻きの言葉が望の脳裏をよぎる。
――ガンバって話しかけてたじゃん。
相手にしないふりをしていただけで、実はかなり胸につかえていたらしい。望は思わず眉を顰めた。
「……知らないわよ」望はひとりごちた。
彼女の夢は科学者になることだ。それも並みの科学者ではない、第一線の研究に関わることができるほどの能力を持った科学者だ。それが並みの努力で達成できるものではないことを望は知っていた。故に彼女は勉強し続ける。学校は彼女にとって、夢を成就させるための1段階に過ぎない。これから先にはいくつもの困難がある。交友関係に勤しむ時間も彼女にとっては惜しい。たった3年間で育む友情に何の価値がある、とも思っていた。
それに彼女自身が決して"天才"ではないことも、彼女は理解していた。
「仕方ないじゃない、こうでもしないと、私はあの中に肩を並べることなんてできないんだから……」
ひとりごちたその声は、悲痛の叫びにも似ていた。クッションを抱きかかえ、顔をうずめる。
少年は暗闇の中で眺めていた。その黄金の瞳は、巨大なコの字型の建物を捉えている。少年がいるのは、建物に近接するビルの屋上。大勢の学生を収容するだけのその建物は、本日の役割を終えて寝静まっている。その佇まいが何とも不気味であったりするのは、今も昔も変わらないわけだが、少年は別段恐怖の類を抱くことはなかった。ただ何かを監視するかのように、建物の中の暗闇を見つめている。
校舎はもとより、グラウンドにも最小限の照明のみが灯っている。この照明もあと数十分すれば、校舎内の防犯機能プログラムによって消され、校舎の出入り口にはすべて厳重なロックが掛けられる……と、下調べでは聞いていた。
(今日も動きは無し、か)
少年が現在時刻を確認し、立ち去ろうとしたその時。
――ゆらり
(何……!?)
校舎中の闇の中で、何かが蠢いたのが見えた。正確に表現するならば、闇の奥で何かが動くというよりは、闇そのものが蠢くと言う方が近い。
(なぜ、急に)
気配を感じて、今度は正門へ視点を移す。そこには暗闇の中、グラウンドを横切り走って校舎へ向かう少女の姿。
(……そういうことかよ)
少年はほんの少しの焦燥を孕んで校舎の闇を睨み付けると、重力に体を委ね、飛び降りた。
望らしくもないミスだった。
明日までに仕上げねばならない課題を保存していたメモリーカードを、学校に置き忘れたのだ。つい先刻、自宅で課題にとりかかろうとした時に気が付いたのである。
焦っていた。この校舎には防犯用のプログラムが仕込まれていて、22時には学校全体が消灯、全ての出入り口にロックがかかる。プラグラムはすべてコンピュータでのみ管理されているため、校内は無人なのである。閉じ込められてしまえば、解除する者はいない。つまりはあと30分以内に事を済ませなければ、校内で一夜を明かすことになるのだ。秋風が冷たい夜、何としてもそれだけは避けたかった。
呼吸を整える間もなく昇降口へ駆け込む。赤い非常灯を頼りに何とか進むことができた。幸い彼女の教室は高等部の1階にあった。昇降口を出て、いつもそうするように右折する。奥まで進み、突き当りの角は曲がらずにすぐ右手の扉を開く。そこが望の教室だ。
教室へ飛び込んで自分の席にたどり着くと、パソコンのディスプレイの前に小さなカードがぽつんと置いてあった。
(露骨、すぎる)
ふと、違和感を感じた。
カードはディスプレイの前、というよりはデスクの中央に置かれていた。まるで"誰かが故意にそこにおいた"ようにも見える。
それ以前に望には、この"カードを置き忘れたこと自体が記憶にない"のだ。彼女の脳内には、確かにカードを鞄の内ポケットにしまった記憶がある。しかし家で確認した時には既に無くなっていた。ポケットは鞄の内側に付いていて、深さがある上横幅はカードがぴったりおさまる程度である。構造上、落とすということはまずありえない。
忘れ物とはそういうものだと言われてしまえばそうかもしれないが、もしそうではないとすれば……?
(こんなことを考えてる場合ではないわね)
ゆるゆると頭を振って踵を返した。先決すべきは校舎から出ることだ。考えることは後からいくらでもできる。
教室から校舎を出るまでに10分もかからない計算だ。望はほっと胸をなでおろして、歩いて玄関まで向かう。
(しかし妙だわ)
望は先ほど感じた違和感を消化しきれずにいた。口元に手を当てるのは、彼女が考え事をするときの癖だ。
そも望が物を置き忘れるのは珍しい話なのである。彼女は常に身の回りのチェックを怠らない。忘れ物をすると今回のように、焦って取りに戻る羽目になり、かつ時間のロスにつながる。度重なればなおさらだ。そのリスクを考慮するならば、自分の身辺には常に注意をしておく方が得策だろうと、彼女は考えているためだ。
(岡崎さんに話しかけられたことで、忘れてしまったのかしら)
しかし望には、彼女との会話に注意を向けた覚えは一切ない。語りかけられたので返事をした、それだけのことだけである。どちらかと言えば「カードを忘れないように」と、いつものように注意を払っていた記憶の方が強い。
(カードは戻ってきたんだし、考えるだけ無駄かしら?)
ところが彼女の性格上、不可思議現象については自身の中で何かしら結論を出さねば気が済まない。もちろん"科学的に"だ。それ以外の選択肢は彼女の中にはない。脳内の引き出しを引っ掻き回しながら、足は自動的に玄関の方へ左折する――。
「あたっ!」
突然の衝撃と額への激痛に思わず声を上げる。思考が中断させられ、額を手でさすりながら正面を見ると、そこは壁だった。ロクに前も見ず感覚のみで歩いていたため、左折するタイミング数歩を間違えたらしい。
(今日の私は不注意もいいところね……)
自己嫌悪の溜息を漏らしつつ、しっかりと進路方向に向き直る。
「えっ?」
望は思わず声をあげた。前方に昇降口などどこにもなかった。両側の無機質な壁と教室の扉が、ずっと奥の暗闇の中へと続いているだけだ。
「どういうこと……!?」
思考に夢中になりすぎて道を間違えたのだろうか――いやそんなことはないと望はかぶりを振った。昇降口が無い廊下の構造は、2階3階でしか有り得ない。望の教室は1階である。行き来に階段を利用するはずがないし、いくら思考に夢中になっていたからといって、日常的に利用しない階段を突然利用するはずがない。大体にして階段は昇降口の真向かいにあるのだ。教室からの帰り道から階を移動することなどまずありえない。
(早くでなくちゃいけないのに!)
時計を確認した。現在時刻は21時45分、防犯プログラムで施錠されるまであと15分――。
望は急に尋常でない焦りに駆られ、走り出す。とりあえずは自分の感覚を信じて走る。このまま走れば昇降口があるはず。仮に階を間違えていたとしても、階段が見えてくるはずだ。万が一気付かず通り過ぎてしまっていたとしても、反対側の壁に突き当たってしまえば引き返せばよいだけの話である。
しかし望が異変を感じるまでそう時間はかからなかった。望は走り続けた。呼吸が乱れるほど走り続けたが、"一向に突き当たる壁など現れない"。
望は立ち止まり、膝に手を当てて呼吸を整える。体力は無いわけではないが、人並みだ。特出しているわけではない。
「一体、どういうこと……」
荒い呼吸の中で冷静な思考を回そうとする。廊下が永遠に続く、出口が消える。これらの不可思議現象を解明するためには――。
――怪奇現象、"幽霊"。
科学的回路にこだわろうとする望の脳内に、もう一つの選択肢が介入する。
――もし、"幽霊"がこの世に存在するなら……
「やめて!!」
それを無理やり掻き消そうとするように、望は叫んだ。
「"幽霊"なんて、この世にはいないわ!」
カラン。
何かが落下したような音。頭を上げると、目に飛び込んできたのは、先程まで何もなかったはずの場所にある、黒く四角い物体。その物体は、"カード"だった。
まさかと望はポケットに手をねじ込んで確認する。――ない。教室で取って来たカードがなくなっている。確かにさっきまで、ポケットの中にあったはずだ。
「そんなばかな」
望は落ちているカードを拾い、ラベルシールを確認する。望のものであるならばそこに名前が書いてあるはずであった。しかしそこに書かれていたのは名前ではなく、大きな×印と、舌を出したスマイルマーク。赤色のインクで描かれたそれは滲んでとても不気味に見えた。
カラン。
再び数歩先で何かが落ちた音。近寄ってみるとやはりそれはカードで、同じようなマークが描かれている。
カラン。
またカードが落ちる。望は得体のしれない恐怖を抱き始めた。
――このカードは何処から降ってくる?このらくがきは誰が?誰が何のために?今目の前で起こっているこの現象は一体何?
次から次へと湧き出る疑問が望の判断力を低下させたのだろうか。望はふらふらとカードを追い続けた。
(このカードの行き着く先に、出口がある気がする)
彼女の脳内はそんな漠然として曖昧な思考に支配されていた。
どれだけ歩いたかは分からない。ただ、正面には窓がある。廊下の先に突き当たったのだ。
(よかった!)
窓の奥に広がる市街の夜景を見て、望は心の底から安堵した。思わず口元が緩む。
(ということは反対側へ走れば帰れるわね)
望が確信した、その時だった。
カラン。
また1枚、足元にカードが落ちた。もはや何も考えずに、望はそれを拾い上げ、赤インクでラベルに書いてある文字を読み上げた。
「ゲーム、オーバー……」
――ゾクリ
途端、望は背後にとてもおぞましいものの気配を感じた。それは今までに感じた事のない気配。敵意、殺意、狂気、あらゆる負の感情が自分の背後に集中している、そんな感覚だった。
(ころされる……?)
望は直感した。ねっとりとして冷たい、名状しがたい気配の"何か"が背後にいる……望は自分の血の気が引いていく音を確かに聞いた。
「伏せろ!!」
どこからともなく、声が響く。
振り向く間もなく背後から細い光が高速で飛んできて、ガラス窓に直撃し蜘蛛の巣状のヒビを作った。そして背後から耳を劈くような大きな低い唸り声。
「きゃぁああ!」
たまらず耳を塞いでその場に屈みこむ。背後で何が起こっているのか分からないまま、震える事しかできなかった。身体がこわばり、手には汗がにじむ。
暫くじっとしていると、背後の禍々しい気配がスッと消えた。恐る恐る耳から手を離し、振り返る。
「伏せろっつったらすぐ伏せろよ。ニブイ女だな」
禍々しい気配の代わりにそこに立っていたのは、何とも奇抜な格好をした少年だった。
鮮やかな金色の髪、暗闇でもはっきりと分かる赤色のパーカー、アシンメトリーなソックス。大きな金の瞳と、左目尻にピンク色の星マークが2つ。何ともビビッドな服装の少年は、おなかのポケットに両手を突っ込んで望を見据えている。
「あ、あなたは……」
混乱したまま望が尋ねる。
「どうした?腰でも抜けたのか?ビビりだなぁあんた!」
少年はニンマリと意地悪く笑う。
「なっ!!」
望はカッとなって立ち上がった。
「なんなのあなた!年上女性に対して失礼でしょ!!」
「なんっ、お前こそ見た目で判断してんじゃねーよ!オレはお前よりと、し、う、え、だっつーの!!」
年下扱いが癇に障ったのか、少年が噛みついく。望は「ははぁん」と理解したような声をあげて
「はいはい、背伸びをしたい気持ちは分かるけど、大人はこういうところに遊び半分で来ないものよ」
と少年の頭を2、3回叩いた。望の腰ほどまでしか背丈のない少年は、その手を乱雑に振り払う。
「お前性格悪いな!そんな態度なら、次は助けてやらねーぞっ!」
性格の悪さはお互い様だろう……と望は言ってやりたくなったが、それ以上に気になることがあった。
「ところでさっき何が起こっていたの?」
あの一瞬で起こったことは一体何だったのか、望は目撃していないので、気になろうとも解析のしようがない。
「あなた見ていたんでしょう?私の後ろで何が起こっていたのか……」
少年は少し考えた風に黙ったが、やがて口を開いた。
「悪霊だよ」
「へっ」
校舎の防犯プログラムの誤作動とでも考えていた望は素っ頓狂な声を上げてしまった。
「あんたは悪霊にとり憑かれかけてたんだよ。もう少しで殺されちまうところだった。だからこのオレ様が……」
「うん……子供に頼ろうとした私が馬鹿だったわ」
得意げに話す少年の頭をぽんぽんと力なく叩いて、はーーーと長くて気怠い溜息を洩らしながら望は言った。
「だからお前ぇ!!見た目で判断するなって言ってるだろ!!」
少年は叩かれた頭をわしわしとかきむしりながら、望を指さしてきぃきぃとわめく。
「見た目だけじゃなくて"総合判断"よ。何か問題でも?」
少年は一瞬ぐっと言葉を詰まらせたが、やがては冷静さを取り戻して言った。
「そもそも今の時代のガキなら、悪霊だのなんだの口にしないだろ。『そんなものはいない』って教育されてるんだから」
「それは確かに、そうだけれども……」
現代、神だ悪霊だ幽霊だといういわゆる非科学的なことを口走れば、もれなく"頭のおかしい奴"という烙印を押される羽目になる。近年科学が急速に進歩し、かつて解明できなかった現象や技術がいとも簡単に明らかにされていく中で、自然と国民の間ではそのような思想が形成されていった。そしてそれは今では常識となった。常識という概念は法令よりも逸脱者には厳しい。世間から迫害されてしまわないよう、現在の教育現場では、幼い頃から子供たちに念入りに教えきかせるのだ。「非科学的なものなどこの世には存在しない」と。
「オレはそんなしがらみに縛られる必要のない存在なんだよ」
死語を引っ張り出すなら、まさに"厨二病"の3文字が望の頭をよぎった。
「それに」少年は緊迫した表情で、廊下の向こうの闇を見据えた。
「あまり悠長にしていられないみたいなんでな」
望にはずいぶんと長い間彷徨っていたように感じられたのだが、時計を確認するとさほど時間が経っていなかった。少年曰く「これも悪霊の仕業だ」ということだが、望にはすんなり受け入れられるはずもない。やはりこの少年は"頭がおかしい"のだと思う。おおかたテレビゲーム(望はテレビゲームに触れたことはないのだが)にどっぷりとのめり込んで、その中の非科学的なものの存在を信じ込み、かつ周りの常識に反抗したいという子供心があるのだろう……と、それ以外の感想はなかった。
かといって、先ほどまでの不可思議な現象、不可解な感覚について考察する気力は今はなかったのだが。
「今なら大丈夫」という少年の言葉により、2人は出口を目指している。何がどう大丈夫なのかは分からなかったが、望は一刻も早く此処を出て行きたかった。
望はちらりと傍らを歩く少年を見下ろす。少年は口をへの字に結んだまま、何かを警戒するかのようにして押し黙っている。
(暗闇が怖いのかしら。やっぱり子供ね)
望は思わずクスリと笑った。
(この子は何処の子なのかしら)望は漠然とそんなことを考える。
(ここを出たら親御さんに連絡して、迎えに来てもらった方が得策よね。すんなり電話番号を教えてくれるかどうかが疑問だけど……)
そんなことを考えていると、闇の向こうに昇降口と上階へ向かう階段が見えた。
「本当だわ、出口がある!さぁ、早く出ましょう」
望が少年の背中を押して走ろうとする。しかし少年は立ち止まったまま動こうとしない。その表情は一層険しくなっている。
「ねぇ、今なら大丈夫なんでしょう?早く……」
「走れ!!」
少年は突如叫んだ。そして振り返って身構える。
「は、今度は何なの!?」
望は少年が睨み付けている、先程まで自分たちが歩いてきた暗闇へ目を凝らす。やがて地鳴りのような低い音が響いてきたかと思うと、それは正体を現した。
黒い四足の生き物。廊下いっぱいの大きさの真っ黒な生き物が、2人へ向かって恐るべき速さで向かってくるのだ。それは紫色の大きくて丸い瞳を持ち、赤く、いびつに歪んだ口は身体の横まで裂けている。身体は定型が無く、グニャグニャと蠢いている。
「いやぁあああ!」
望は思わず叫んだ。
「聞こえねーのか!!逃げろって言ってんだろ!ターゲットはお前だ!!」
「で、でも、あなたは」望の声は恐怖と混乱で震えていた。
「オレは大丈夫だから!」
猛スピードで近づくソレに完全に臆した望は、目に涙を溜めて走り出す。先刻目の前にあったはずの昇降口と階段は、跡形も無く消え去っていた。
「もういやぁああああ!!」
望はたまらず走りながら叫んだ。背後で激しく鳴り響く銃声にも気が付かないほど、彼女の気は動転していた。
「どこか広い場所へ逃げ込め!」
無我夢中で走り続けていると、突然少年の声が響いた。
「そこで奴を迎え撃つ!!」
どこから少年の声が聞こえてくるかなど、確認する余裕はなかった。
「どこか広いとこって言ったって、廊下しかないじゃない!!」
望は力の限り叫んだ。
「今オレが奴を弱らせた!奴の魔力は弱まってる――とにかく、今なら元の校舎の姿に戻ってるってことだ!!どこか広い場所はないか!?」
望は必死に動揺する自身の心を静め、考えた。昇降口に引き返すことはできない今、グラウンドに出ることは不可能である。今走っているこの廊下が伸びる先には――。
「体育館!!」
望は叫んだ。
「上等だ!そこまで走って扉を開けろ!!」
少年は声しか聞こえないものの、切羽詰った状況であることは望にも理解できた。
(やらなくちゃ……!)
体力は限界に近かったが、足に力を入れ直し、全速力で走った。
少年の言うとおり、間もなく廊下は突き当たった。望は道に従い右折する。やがて渡り廊下へと通じる両開きの扉。急いで開放し、すぐさま体育館の扉を開けようとする――ところが。
「どうして!?開かない!!」
何故か押しても引いても開く気配がない。これも少年の言う"悪霊"の仕業なのか。望は力に任せ扉に拳を叩きつける。
「開いて、開きなさいよぉっ!」
無情にも鉄の扉はピクリとも動かない。勢いをつけて体当たりをしてみたものの、身体に鈍い痛みが残るだけだった。
「どうして……どうして私がこんな目に」
体中の力が抜けて、その場にへたり込んだ。痛みと肉体的疲労、追い詰められた精神状態が、彼女の目から涙をにじませる。強気な彼女の精神にも限界が近づいていた。
「誰か、助けて……助けてよ……!」
望が掠れた声で呟いた――その時。
「どけぇえええええええ!!!」
背後からの絶叫。振り返ると、黒い化け物と、それを誘ってこちらへ向かってくる少年の姿。しかしその身体は――。
「ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああ!!!!」
少年の声が急速に大きくなる。望はとっさに小さく縮こまって、廊下の隅で頭を抱え込んだ。
――ガアン!!
少年が与えた衝撃によって開かずの扉は破られ、少年は化け物共々体育館へなだれ込んだ。
「やるじゃねえか、あんた!見直したぜ」
望は恐る恐る体育館の中を覗き込む。化け物が体を掠るほどの至近距離を猛スピードで過ぎ去っていったという事実だけで、既に望の恐怖は最大値を超えていたのだが、一つだけどうしても確かめずにはいられないことがあったのだ。体育館の暗闇の中、あちこちに視線をめぐらせ、少年が"どこにいるか"探す。
(ああ、やっぱり)
先刻の一瞬で少年の身体に感じた異変は、見間違いではないのだと望は確信することになった。
少年のその身体は、"宙に浮いている"。空を飛んでいるのだ。そして背中には仄かに青く光る大きな翼がある。鳥の翼というよりは、羽根の形をした光といった表現の方が近いかもしれない。
少年が化け物と共に扉へ突っ込んでくる瞬間、望は見た。人間が走る速さを優に超えるスピードで、少年が空中を飛んでくる姿を。そのまま足をつき出して扉にぶちあたることで、扉を蹴破ったのだ。
馬鹿な、有り得ない。その二言が望の脳内を駆け巡る。人間が機器に頼らず空を飛ぶことなど、現代科学では不可能とされている。海外で軍事用に開発されたことがあると聞いたが、どれもこれも欠陥だらけで成功例は無いという……。
しかし少年は現に目の前で空を自由に飛び回っている。世界史の資料で見た絵画のものとは見た目こそ違えど、大きな翼を持つその姿はまるで――
(天使……?)
混乱する望を尻目に、化け物は体育館が震えるほど大きな声で咆哮した。思考回路は遮断され、望は小さく悲鳴を上げ思わず耳を塞ぐ。少年だけがニヤリと不敵な笑みを浮かべていた。
「手こずらせてくれやがって……、さっさとケリつけるぜ!!」
少年が両手を宙にかざすと、その掌にどこからともなく二丁の白い拳銃が現れた。
「かかってきなァ!」
化け物は身体をうねらせて少年へ突撃する。少年は構えた二丁の拳銃を、タイミングをずらして発砲する。銃弾は鮮やかな光の線となって、化け物の身体を貫いていく。
(そうか、じゃああの時の……)
望は鮮明に思い出した。追い詰められた望の目の前で、窓にヒビを入れ、化け物を追い払ったあの光の正体は、少年の拳銃の弾だったのだ。
(じゃああの時私を守ってくれたのは、本当にあの子……!)
少年は化け物の周囲を俊敏に飛び回り、様々な方向から打ち抜いていく。そのスピードは、化け物に反撃の隙を全く与えないほどだ。次々に銃弾を受けた化け物の身体は、銃弾が当たった箇所から、水風船が割れるかのように弾け飛ぶ。望でも見てわかるほどに、化け物は弱ってきていた。燕のように飛び回る少年を捕まえようと足を振り回しもがいていた化け物は、今ではもう殆んど動かない。廊下で苦戦していたことなど忘れてしまうほど、少年はあっという間に鎮めてしまった。自由に飛び回ることのできない廊下は、彼にとって戦いづらかっただけなのだ。
少年は化け物の背後に回り込み。様子を伺う。殆んど動かないことを確認すると、両手を頭上に振り上げる。
刹那、バチバチと電流のほとばしる音と共に、少年の両手のひらが強い光を放つ。余りの眩しさに望は思わず手で目元を覆った。やがて少年の手のひらには、雷の形をした大きな光が現れた。
「とどめだ!」
少年が言い放ち、両手を化け物へ振り下ろそうとした瞬間、化け物が突如望の方へ猛スピードで突進してきた!
「!!」
「しまった!!」少年は光を掻き消し、望の方へ全速力で飛ぶ。
言葉にならない悲鳴、望は身体を動かす余裕もない。化け物は大きな口を開いて望を食らおうと迫る。一瞬が何時間にも感じられた。ただ望は目を見開いて、目の前に迫る化け物の大きな目と口を見つめるしかなかった――。
化け物と望の距離が数メートルと迫ったその瞬間、化け物の進路を遮るように現れた赤い影――あの少年だ。
少年は化け物の巨大な両目に銃口を突きつけた。そして一瞬の呼吸の後、一気に双方の引き金を引く。
「ギイイイイイィイイィィィィイィイィィィイィイイイイイイ!!!!」
直接銃弾を撃ち込まれた化け物は、狂った悲鳴のような鳴き声を残し、砂嵐のように掻き消えた。
「大丈夫か!?」
少年は振り返り望に尋ねる。
「あ、ああ……」
望は顔面蒼白で、恐怖で身体はこわばっていた。肯定の意を示そうにも首を上手く縦に振ることも出来ず、言葉もうまく発せない。
少年はそんな望の様子に一瞬驚いた様子を見せたが、やがて気まずそうな表情で「悪かったよ」と、指で頬をかいた。
「あーらら、本当に1人でやっつけちゃたんだねェ」
視線を上げると、体育館の上空、闇の中に3つの人影が浮かんでいる。闇に隠れてはっきりとその姿を見ることはできないが、うっすらと見える輪郭でそれが人の形をしていることがわかる。そして彼らには少年と同じ、青白く輝く翼がある。ねっとりとして気の抜けた先刻の声は、どうやらこのうちの1人のものらしい。
「わーりわり。お前らを呼ぶ程でもないんじゃねェかって思ってさ」
少年は望の元を離れ、3人の元へふわりと浮きあがる。
「あ、あなた達は」
望はやっと喉から声を絞り出し、少年を呼び止める。そして、ずっと抱いていた疑問を投げかけた。
「あなた達は、一体なんなの……?」
その疑問を待っていましたとでも言うように、少年は口角をつりあげて、ニタリと笑う。そして誇らしげに言い放った。
「俺たちは神の勅令を受けた特殊部隊『秘密結社J』。そしてオレ様はそのリーダー、正天使アンジェロ様だ!!」
疲労か混乱かそれとも呆れ果てただけなのか、望は意識が遠のいていくのを感じた。
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